溜池山王にあるミシュラン一つ星を獲得するフランス料理店「アマラントス」の宮崎シェフにインタビューしてきました。
宮崎慎太郎シェフのこれまでのヒストリーを是非ご覧ください。
料理人になるきっかけ
宮崎:高校2年か3年の時に観た「料理の鉄人」に憧れて料理人の道を目指すようになりました。
イッコー:あの番組に感化されたシェフめちゃめちゃ多いですよね。
宮崎:凄くワクワクして観てましたね。それで専門学校へ行きながらレストランでバイトしてたんですが先輩方から「早く就職しろよ。お前は何が好きなんだ?」と聞かれ、
「ハンバーグとかカレーとかスパゲッティが好きです」くらいしか答えられなくて笑
イッコー:小学生みたいですね笑
宮崎:それで「洋食が好きならフランス料理目指したらどうだ?」ということでフランス料理に絞って学ぶことにしました。
イッコー:なるほど。それでフランス料理の道を目指すことになるんですね。
宮崎:はい。専門学校後半に働いてたレストランの紹介で横浜元町風我亭というフランス料理店で内定が決まっていて卒業後には二俣川に引っ越しを済ませたんですが、電話がかかってきて「シェフたちが辞めて新しいシェフが来るからお前の場所はない」って言われて。
イッコー:え?二俣川に引っ越したのに?笑
宮崎:はい笑。それで紹介してくださった方に「フランス料理はデザートも作れないといけないから」ということで錦糸町のお菓子屋さんで働くことになりました。場所は錦糸町・・・
イッコー:神奈川県の二俣川から錦糸町まで通うことになったんですね。
お菓子屋さん
宮崎:あまりに遠いので親方に「給与から天引きするけど金は貸すから錦糸町に近いところに引っ越して来い」と言われて、それで二俣川から錦糸町に引っ越すことになりました。
イッコー:引っ越したからには辞められないですよね。
宮崎:はい笑。でもとりあえずやるしかないなと。
イッコー:製菓というと分量とかきっちり決まっていて凄く大変なイメージがあります。
宮崎:そうですね。分量もそうですし混ぜ方によっても変わってきます。例えばプリン30個のレシピがあって、31個取れてしまうと怒られるんですよ。
イッコー:1個増えたからラッキーではないんですね。
宮崎:はい、きっちりレシピ通りにやらないといけない。なんだかんだそこで気に入っていただいて3年いたんですけど基本的な料理の考え方を学びました。
イッコー:結局3年も・・・そこからは?
宮崎:西麻布に菊池シェフが「ル・ブルギニオン」という店がオープンするという話を聞き、当時菊池シェフがシェフをやっていたお店に面接に行きました。パティシエをやっていたこともあって2000年1月にオープニングスタッフとしてようやくフレンチとしてのちゃんとした修業が始まります。
怒られる日々
調理場が暑いのでデザートの仕込みをしようにもできない。はやく作らないといけないんですね。先輩からは「朝来て自分が来るまでにデザートの仕込みは終わらせておけ」と言われて朝6時くらいから仕込みしてましたね。
イッコー:帰るのは日をまたぐこともあったんですか?
宮崎:そうですね。とにかく毎日満席の店だったんで寝坊しちゃいけないということで次の日に着るコックコートを着てカーペットの上で寝る日々でした。
イッコー:おぉ・・・。宮崎さんでもけっこう怒られてたんですか?
宮崎:もう怒鳴られまくるし、先輩からは「鼻くそ」って呼ばれてましたし。
イッコー:辞めるって選択肢はなかったですか?
宮崎:自分が仕事できなかったですからね。皿洗いで皿割っちゃったり迷惑しかかけてなかったですね。もちろん悔しい気持ちもありましたけど。
イッコー:パティシエだったからデザートは任せられてたんですか?
宮崎:はい、でも勝手が違うから最初の頃はミスして「何のためにお前を雇ったんだ?」って言われて。
イッコー:それは辛いですね。。。
宮崎:このままでいいのか?という想いや、他の有名店のシェフの料理も興味が出てきたタイミングで当時の支配人が独立することになりました。その支配人の人間性に惹かれてもし彼が店をやるならそこで働くのもいいなと思いブルギニオンを辞める事にしました。
イッコー:支配人がいつ店だすのもわからないまま?
宮崎:はい、なのでその方が店で出すまで銀座の「ヴァンピックル」で雇ってもらいました。そこも勝手が全然違ったので「お前本当にブルギニオン出身か?」とか怒られながら笑
それでようやく麴町に「オーグードゥジュール」という支配人のお店が出来上がり、オープニングスタッフとして加わることになりました。クラシックが得意なシェフだったのでブルギニオンとは全く異なる料理をそこで学ぶことになります。
イッコー:「オーグードゥジュール」での位置は?
宮崎:3番手ですね。スーシェフにはいまの「La paix」の松本さんがいました。忙しくてついてくのが必死だったんですけど仕込みも色々任されるようになってきた時期でそれが凄い楽しかったですね。
イッコー:まさにご自身がやりたかったフランス料理に没頭する日々だったんですね。
宮崎:はい。それから松本さんが日本橋の「メルヴェイユ」にシェフとして行かれたあとは実質僕がスーシェフとして全体をみてましたね。
フランス修行
でもフランスで修業された中村シェフとベルギーで修業された松本スーシェフの二人の会話についていけない自分がいたり、フランス料理をやってる人間としてフランスに行っておく方がいいと思い、29歳でお見せを辞めさせてもらうことになります。
イッコー:フランスはパリだと伺ったんですがどうやってレストランで働くんですか?
宮崎:向こうでミシュランを買って三ツ星から順々に手紙を出しましたんですけど全然返事がこなかったんで昼の3時から4時くらいの時間を狙って「ここで働きたいです」ってメモを書いて渡してましたね。
イッコー:なかなか泥臭いですねそれも笑。それであけてくれることあったんですか?
宮崎:はい、二つ星のレストランになんとか入ることができました。そこはグランメゾンだったんで盛り付けソースなど各セクションに分かれて、ある日他のフランス人のミスを僕のせいにされたことがあったんです。
イッコー:うわ、でもフランス語ができないですよね?
宮崎:はい、でもそのときは日本語でめちゃくちゃ怒って言い返したんです。そしたら地下におろされて。地下は黒人たちがクルミを割ったり、アーモンドの中を取り出したりする人たちがいる場所です。
でもフランス人たちも自分たちが悪いってわかっててシェフに「本当は彼は悪くない」と言ってくれたんです。それからは片言でも単語でもいいからコミュニケーションを取るように心がけました。
イッコー:自己主張しないとやられちゃうんですね。
宮崎:そうなんです。自分でどんどん主張していかないとずっと同じ仕事のままなんです。でも逆にちゃんと自分の意志を伝えれば絶対やらせてくれます。
イッコー:なるほど。アピールしたもの勝ちんですね。そのあとは?
宮崎:お金が欲しかったんでそのあとは一つ星、街場のレストラン、美術館のレストランのスーシェフを務めました。そんな時、お世話になった「オーグードゥジュール」が「東京に新たにレストランを出すからシェフとしてそこでやらないか?」という話をいただいて、日本に帰ることになります。
一つ星の呪縛
イッコー:丸の内ですね。その年にミシュランが日本に上陸しますよね。
宮崎:はい、立ち上げのシェフとしてやらせてもらって初年度でミシュラン一つ星を獲得しました。
イッコー:めちゃめちゃいい流れですね。そこで7年間いらっしゃったとお聞きしたんですが、なんで辞めることになるんですか?
宮崎:グループ店って色んな問題があって、そろそろ環境を変えたいと思ったんです。Facebookで「次はまだ決まってないけど次の4月で辞めます」って投稿したらリッツカールトン東京からオファーをいただきました。
イッコー:凄いですね。リッツカールトン東京の「アジュール フォーティーファイブ」のヘッドシェフということですね。ホテルっていうとスタッフの人数も多くてまた色々大変だったんじゃないですか?
宮崎:そうですね、勝手は違うし味方はいない。だけど結果を残さなきゃいけない状況でした。そんな時、前の職場からは鴨志田さんが来てくれたおかげでサービスの人たちとの連携はスムーズにいくようになりましたね。
イッコー:一番の課題ってなんでしたか?
宮崎:一番改革しないといけなかったのはサービスですね。皆さん輝かしい経歴の持ち主ばかりだったんですが「なんの評価も得れてないこのフレンチレストランで働きたかったわけじゃない」ってのがベースにあったんでその意識を変えないといけないと思いました。
イッコー:まだ意識が低かったんですね。
宮崎:はい。「自分はここに星を取りにきて、いままさにミシュランの調査員が来てるかもしれない。まずは騙されたと思って自分の言うことを聞いてくれ」って言う想いを一人一人にメッセージを書きましたね。それで一年後に最低限の一つ星は獲得できたんです。
イッコー:凄い。有言実行になったんですね!
宮崎:それからスタッフは意識も変わってきて、いま考えてもいいチームでした。絶対にこのチームで2つ星を取るために色んな料理を作って色んなプレゼンテーションしたり素晴らしい時間でした。
イッコー:リアル・グランメゾン東京だ。
宮崎:でも毎年毎年一つ星を取る度にだんだん感覚が麻痺していって「一つ星じゃダメなんだ」っていう想いに駆られ、上層部からは「いつ2つ星になるんだ?」と煽られ笑
イッコー:うわぁ…一つ星でも十分凄いのに。
宮崎:元ミシュラン調査員のフランス人が送り込まれて色々言われたりもしてかなり屈辱的でしたね。
でもその分成長はできたかなと。だけど結局結果を出せないままコロナになっちゃって。
独立と挑戦
イッコー:ホテルはどのくらいいたんですか?
宮崎:7年です。これ以上ないほど努力したんですけどダメでしたね。コロナ禍になってからは星とか言ってられない感じになっちゃって。
ああいうコロナみたいなことが起きると一番必要とされない分野なんだなと気づいて、それならまだ体が動くうちに小さくてもいいから自分の店をやった方がいいのではないかと思ったのが独立のきっかけでした。
イッコー:46歳の年に自分のお店を出すっていうこれもまた大きいなチャレンジでしたね。2021年10月25日に「アマラントス」をオープンさせて翌年には見事ミシュラン一つ星を獲得されましたがその時はどんな心境だったんでしょうか?
宮崎:お店も小さいし取れたらいいなって感じでしたね。取れなかったらもっとカジュアル路線でいかないと経営的に厳しいだろうし、勿論取れたら取れたでもっと突き詰めないといけないですし。だけどまだ一つ星なんですよね。
イッコー:ずっと一つ星の呪縛ですね笑
宮崎:はい笑。そこで今後はさらに挑戦していこうということで来年「アマラントス」は銀座に進出します。
イッコー:凄い。僕も必ずお伺いさせていただきます。本日はありがとうございました!
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