「美味しい」とはどの様に評価されるのだろうか?
たとえばドラゴンボールのスカウターようにハッキリと美味しさが数字で表すことができたらわかりやすいのに。
「自分の料理は美味しいと自覚がある。
だけどなんで客がこないんだ?
なんであんなパフォーマンスだけの店に客がいくんだ?
俺の料理の方が絶対美味いのに」
おそらくそう思う料理人ってめちゃめちゃいると思う…
思えばお笑いでも映画でも音楽でも同じことだ。
人間の感情に訴えるものに関してははっきり数字で評価されることってない。
というか評価できない。
「なぜなら主観が伴うからだ。」
人の主観ほど曖昧なものはない。
「美味しい」ということを決める要因は複数ある。
自分が過去に味わってきた経験、店のサービス(ホスピタリティ)や雰囲気(居心地)、高級食材(高級店)、その日の体調、他人の意見などだ。
他人の意見で味の評価が左右されるのはなんだかもったいない話だがこれが結構ある。
本当はそこまで美味しいとは感じてなくても多くの人が美味いと言ってる口コミをみたら「自分が間違っていたのかも」とか「まだ経験が足りないからだ」とか思ったりもするかもしれない。
美味しいものを食べても本当に美味しいものを評価できない人が多いのも事実。
じゃあ本当に美味しいものを評価できる人ってそんなにいるの?
誰しもが料理評論家みたいに絶対的な舌の持ち主とは限らないじゃないか。
そうです。
料理を食べるのは素人なわけでそう言った人たちが口コミサイトなんかで店を評価したりするものだからもはやそう言った口コミサイトなんかあてにならないわけだ。
人間は感情の生き物だ。
前に食べた時は大したことがなかったけど最近食べたら美味しく感じた。
その理由は何か?
自分の舌が変わったのか?
料理を見るポイントが変わったのか?
料理人の腕が上がったのか?
これらから言えることは結局のところ何が正しいかなんて料理の世界に存在しないということ。
目の前でちょっとしたパフォーマンスをやってもらう、客あしらいや接客が上手い、インスタ映えする料理がある。
これだけでグッと印象が良くなってしまったりする。
逆にいくら料理が美味くてもお店の印象が悪ければ評価は高くなることはない。
人の評価というものは実に曖昧だ。
そしてその曖昧なものに振り回されてしまうのもまた残酷な話である。
その度に店は時に過大評価をされたり過小評価をされたり。
自分が美味しいと思うものを出すことだけを考えられたら楽ではあるがそこは客商売。
やっぱりお客が来ないと商売にならないし赤字で店は続けられない。
時に店は自分の信念を曲げて客に迎合することもある。
逆にその信念を曲げずにそのまま潰れることもある。
または曲げずに評価されることもある。
これはもはや一種の賭けである。
料理人というのは時に「美味い」という個人の主観に依拠する非常に曖昧な感情に振り回されながらも悪戦苦闘しながら闘っているのである。
心無い口コミをみるともうちょっと言い方考えてやれよと思ったりする。
誰もマズイ料理を出してやろうなどと思う料理人なんて1人もいないと思うんだよな…
結局のところ「美味しい」というのはとても曖昧でいい加減で繊細な感情によるものなんだなと思う次第であります。
ではまた。
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